「古い話だがアニメクライシス1983って話をした」
「簡単に要約すると何?」
「1983年前後に、頑張ったはずなのに評価されないアニメが多く出たという現象に名前を付けたもの。ヤマト完結編と始め、幻魔大戦、クラッシャージョウ、サイコアーマーゴーバリアンなどが該当する」
「原因は何?」
「クオリティアップはある段階までは好ましい効果をもたらすが、一線を越えるとまず客が追従できなくなり、次にスタッフが追従できなくなる。その結果、努力が空転して報われない……と考えてみた」
「スタッフも追従できないものなの?」
「関わる人数が増えると超えられない一線も下がる。そういう意味で、アニメのような多人数が関わるものは、アニメであると言うだけで超えられない一線が低い」
「完結編は、構想されたスケールの何割が実際のフィルムに落とし込めたのか怪しいってことだね」
Subject: 1983アニメ映画決戦、ヤマト完結編、クラッシャージョウ、幻魔大戦
Keyword: 【▲→トーノZERO→アニメ論→アニメクライシス1983】
URL: http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20140830091213
名前: トモネコ
本文:
執筆、お疲れ様ですm(__)m
アニメクライシスとても面白く
この先の理論展開がとても気になります!
これが無料ではもったい無いと思います。
キンドル版で300円で良いのでは?
(この先、発売予定でしょうか?)
幻魔大戦は当時、原作者の平井氏が「一番、大切な部分が抜けている、コマーシャルをありがとう」とまで述べていました(^_^;)
ジョウも高千穂氏が頭をカラッポにして視て下さいと舞台挨拶をしていて真に受けた小牧氏が「途中でストーリーが分からなくなった」と述べていました。
完結編は当時、「俺たちのヤマトをこんなにしやがって」空気が蔓延していましたね(私も同感でした)
しかし、今はトーノ様のおかげで再評価しています!
当時のアニメファンの空気はヤマトからガンダムにファンが総移動して、ガンダム映画の完結でアニメファンを卒業する多数派と一生アニメファンを続けるぞ!と決意する元祖オタク(少数派)の二派に分かれ初めた頃と思います。一般人は皆、異性や車、スポーツのメジャー趣味に行ってしまった頃でした(T_T)
・追記・
ジョウの劇場版は脚本は高千穂氏ではなかったでしょうか?
(私の記憶違いか?)
「この話は有料にはしないよ」
「なんで?」
「こんな者金を払って読もうという人はいないだろうから」
「ひ~」
「ちなみにゴーバリアン本は有料になる見込みだ」
「理由は?」
「どうせみんな無料でも読まないだろうから」
「ひ~ひ~」
「ちなみにクラッシャージョウの脚本は以下のように連名になっている」
- 原作、脚本、監修:高千穂遙
- 監督、脚本、作画監督、キャラクターデザイン:安彦良和
「半分は高千穂遙さんってこと?」
「いや、安彦良和が尊重されていたので、メインライターは安彦良和という解釈で良いだろう」
オマケ §
「1983年頃の君はアニメ卒業派だったのかい? アニメにしがみつく派だったのかい?」
「そこは難しい質問だ」
「なんで?」
「その当時の自分の考えは簡単で、少しアニメに飽きていた。だから、ヤマトから始まったアニメブームの終焉を見届けることが目標であった。見届けたらもうアニメ趣味なんて止めてもいいと思っていた」
「それで?」
「番狂わせは、その後のも良いアニメが続々出てきてブームが終わらなかったことだ。自分が終わりを自分で宣言したのは2004年頃になる」
「えー」
「というわけで、アニメにしがみついた訳では無いのだが、即座に卒業もできない困った状況に立たされた」
「今から考えるとそれは良いこと?」
「死んだ子の年を数えてもしょうがないが、良くない選択だったと思う。人生の時間をかなり無駄にした」
オマケ2 §
「ドラえもん映画の最初のターニングポイントは魔界大冒険だと思うが、これは1984年の春。つまり十分に1983年前後の範囲に収まる。アニメクライシス1983はまさに本物だな。参った」
「魔界大冒険ってドラえもん映画だろう? 何が凄いわけ?」
「だからさ。魔王の心臓がどこかに隠してあるとか。あまり日本の馴染みの無いファンタジー設定もバシバシ使っているわけだ」
「えー」
「しかも、映画が途中で終わりそうになってのび太が慌ててそれを取り消して継続させるような凝った表現もある。分かりやすく良く出来ていると思ったが、それでもハードルは高かったのだ。そもそもオタクとは、1回ひねっただけで追従できなくなる人が珍しくない世界だしね。子供にも辛かったのかも知れない」
「ダメじゃん」
「まあ、少なくとも自分が見ている範囲で最も面白かったのは魔界大冒険だと思うし、他にもこの映画を評価しているからリメイクもされているのだろう。でもそれはそれとして、やはり難しいのかも知れない」
「その難しさがアニメクライシス1983なのだね」
オマケIII §
「番狂わせは、その後のも良いアニメが続々出てきてブームが終わらなかったことだ。自分が終わりを自分で宣言したのは2004年頃になる」
「具体的な契機はなんだい?」
「蒼穹のファフナーってアニメがあってね」
「それがヤマトとどんな関係があるんだよ」
「監督は羽原信義さんなのだよ。ヤマト2199にダイレクトにつながる」
「なんてこった!」
「結局、ファフナーってハードなコミュニケーション論を延々とやっていたのだが、それが通じていたのかといえばかなりの疑問符が付いた。少なくとも自分の周囲のオタクには届かなかった。作品がコミュニケーションの接点を求めているにも関わらず、求められたという意識すら無い人ばかりだったよ」
「ふーん。何か思い出はある?」
「番宣で【あなたはそこにいますか?】って言っていると【いないって言ってるだろ】って怒る人がいたけどさ。【いない】ってことは、個がない、つまり全体が1つであるフェストゥムという敵だってことなのだ。本来いるかいないか質問しているわけではないが、ずいぶんと墓穴を掘ってる人がいたなあ」
「個がないっていうのは、SBヤマトのデスラーなのだね」
「基本的な考え方は同じだが、ファフナーの方が先だな」
「それで、ファフナーの話をした俺達はどこに行くんだ?」
「楽園だ」
「いや、それはいいから。つまり、君に取って印象深い出来事には羽原さんの名前が出てくることが多いわけだね」
「そうだな。最近でもあったぞ」
「なんだよ」
「国分寺の東経大の学祭にXEBECの展示を見に行ったら、目玉が羽原さんのインタビューだった」
「なんてこった!」
「羽原さんがゲストのヤマトークの時は、なんでこれしか客が来ないんだよ……と怒ったりもしたけどな。いや、他のゲストは少なくても良いわけではないが」
オマケ完結編 §
「絶版漫画図書館でななか6/17というコミックを読んだが、実は目から鱗が落ちた」
「どんな内容なんだ?」
「17歳の少女の人格が6歳に戻ってしまう」
「それで?」
「実はね。昔第1話だけ読んだことがあるの。その時はつまらないと思って捨てたけど、それはミステークだった。本質的な問題提起は第2話であったのだ」
「もっと分かるように説明しろ」
「そもそもつまらない【萌え】作品に頻出する特徴には以下のようなものがある」
- 設定上は女子高生だが事実上幼女
- 子供が考えた【大人】が出てくる (本当の大人がいない)
- 男にとって都合のよい女しか出てこない (本当の女がいない)
「分かった、身体が17歳、心は6歳ってことは、【設定上は女子高生だが事実上幼女】という特徴と丸ごとかぶるわけだね」
「そうだ。そういう意味ではまたいで通る方が良い作品に分類されてしまったのだが、そうではなかった」
「なんで?」
「作品のテーマそのものが【大人になるとは何か】という大人論なのだよ。だから、そこには本物の大人がいる。そして、登場する女性キャラのほとんどがやたらめんどくさい。他人の都合などに合わせて可愛く振る舞ったりはしない。要するにめんどくさいのだよ。最も温厚で安定したピアノを教えてくれるお姉ちゃんですら、実は爆発すると恐い要素を密かに持っている」
「女は都合の良い道具になってくれないわけだね」
「そうそう。生々しい女がそこにいる。面倒臭くてうざい」
「で、その話がいったいヤマトとどう関係するわけ?」
「そこだっ!」
「どこどこ?」
「結局ヤマト2199もバリエーションが広がりすぎて、ダメな萌えパターンに陥っている場合があるなとしみじみ思った」
「こういう漫画作品もあれば、ダメなヤマト2199もあるわけだね」
「うん。それを噛みしめる契機になった」
「でもさ。なんで差が出るわけ? 作者の資質?」
「それもあるだろうが、やはり関わる人数に差があるのが要因だろう。本当に何かの一歩を踏み出せる作品は、大人数では作れない」
「つまり、アニメでは難しいが、漫画では努力次第ってことだね」
「もちろん、アニメはダメで漫画は良いという話ではないよ。ダメな漫画はいくらでもあるし、良いアニメもある」